不動岡誠和高校(現 誠和福祉高校)を卒業し、まきば園が開園した5か月後の4月に入職した吉澤さんは、行田のまきば園で経験を積んだあと、鴻巣まきば園の開園と同時に異動、立ち上げに尽力されました。開設当初の研修企画や入居申し込みの受付、介護サービス課の主任や施設ケアマネを経験後、現在は居宅介護支援センターの管理者として勤務しながら、副施設長として日々お客様とスタッフの声に耳を傾けています。
今回のスタッフインタビューは、勤続約30年の経験の一部分を、2回に渡って掲載しました。

 

まきば園に就職した時のことを教えてください。

不動岡誠和高校が福祉の専門科を作って2年目に入学しました。同居の祖父母がいてお年寄りと関わるのは得意だし、人のお世話も苦手じゃないと思って入学しましたが、思っていたより看護寄りの授業内容だったので、最初は戸惑いました。でも看護師の厳しい先生がミニテストを繰り返してくれたおかげで介護福祉士に合格できたし、その時学んだ看護の知識は今もけっこう残っていて役立っていると感じます。
まきば園に就職見学に来た時はまだ建物ができていなくて、隣の理事長のご自宅の、本がたくさんあるお部屋に説明を受けに行ったことを覚えています。緊張しました(笑)
就職した当初は、お休みが不定期で「働くって大変なんだなぁ」と思ったり、想像よりたくさんお給料がもらえてドキドキしたり、成人式の着物を買ったり、よく覚えていますね。当時は初任給の使い道を作文に書くという宿題があって、それをきっかけに家族に食事をごちそうしたりもしました。

 

就職してすぐに管理職になられたのですね。

就職して約2年後、成人式が終わった直後くらいに介護サービス課の主任になりました。仁司理事長に言われて、なんで私なんだろうとびっくりしましたね。当時まきば園は新設の施設だったから、いろいろな場所からいろいろな人が集まってきて、日々意見のぶつかりあいでした。福祉に対して想いが強い方も多く、思い描いているものがみんな違って、一個決めるのにも時間がかかっていました。
私は経験も少ないし、年も若いし、まとめるのが大変で、いま思い出しても「いやだなぁ」と思っちゃうくらい(笑)自分の思っていることを伝えるということが、こんなにも大変なのかと思いました。それなのに、チーフ会議でもみんなに注意されたりして…(笑)一度チーフ会議で反発して言い返したこともありました。ケアハウスのカラオケ大会に特養のお客様を観客として出席していただくという内容で、特養のお客様が聞くだけだなんてつまんないじゃないか!って思ったんです。でもうまく伝えられず撃沈しました…(笑)
介護をとりまく情勢も大きく変わっていった時で、就職して5年後くらいにケアマネの初めての試験がありました。ケアマネっていったいなんなんだろうと思いつつも、周りの仲間と一緒に申し込みました。ひとりが受験対策の通信講座を申し込んで、そのテキストをコピーしてまわしてくれて勉強しました。今じゃできない方法ですけど(笑)ありがたかったです。
介護以外の研修もたくさん参加させてもらいました。まきば園に入ったから行けた場所がたくさんあります。川本の特養に先輩とペアになって3日間行ったり、九州の施設にひとりで何日間か体験に行ったり。他のところで何かさせてもらうというのはいい経験でした。

 

この30年でまきば園も大きく変化していきましたね。

岩槻、温泉、鴻巣ができていき、介護保険、TENA、ユニットケアと、次から次へといろいろなことが始まっていきました。新しい場所ができる度に育てた人が巣立っていき、ちょっと寂しい気持ちになることもありましたね。
でもできていくのを見ていると、チャレンジすることがこんなにあるのか、すごいなと思いました。チャレンジする時にはその度にみんながついていく、いや、ついていかざるをえない…(笑)仁司理事長と節子理事長の人を動かしていく力、ついていきやすい状況を作る力に驚かされます。ふと気づくとその渦の中にいる感じでしたね。

 

特に印象に残っている「変化」を教えてください。

TENAを始めた時は、すごく戸惑いました。当時は布おむつの中に紙おむつを敷いて、2時間おきにオムツ交換をしていました。褥瘡を作らないためにも清潔さを保たなければならない。そのために交換回数を増やすことは良いこと!というのが常識でした。TENAになって、まず長時間おむつを当てたままでいることに不安がありました。
TENAを始めるぞとなったものの、自分が主任の時の出来事だから、結局排泄表とか仕組みを作るのは私なわけで…(笑)でも、その時のTENAアドバイザーが朝早く夜遅く園に来て教えてくれて、なんとか浸透させることができました。

 

まきば園(行田)で12年の経験を積んだあと、鴻巣まきば園に異動されたのですね。

まきば園の特養の主任を10年弱経験した後、ケアハウスの主任を1年、そのあと温泉デイに行きました。その時に初めて辞めたいと思って節子理事長に相談に行ったことを覚えています。結局ほだされちゃったんですけど(笑)温泉はすごく大変だった分、思い入れもあって離れがたかったですが、鴻巣まきば園の開設準備が始まるのと同時に鴻巣に異動することになりました。温泉デイの外で仁司理事長と立ち話をしている時に突然鴻巣異動の話をされて驚きましたねぇ。

 

鴻巣まきば園では初めてのユニットケアを経験されました。

時代の変化に合わせて個別ケアが広がっていきました。以前はどれだけ管理した中でお客様に安全に過ごしていただくかが重要だったけれど、集団から個別に焦点を切り替えて、お客様を中心とした生活のお手伝いをすることが重要になりました。多床室の行田で経験を重ねてきた分、ユニットケアの挑戦は大変でしたけれど、面白かったですね。

鴻巣まきば園でユニットケアが始まった時は混乱もありました。最初はお客様の「個別性」が大事なんだと思って、希望された方にはご自宅の使い慣れたコップや箸をご持参いただいて、それぞれにお名前をつけて使ってもらえるようにしていました。他にも色々努力していましたが、でも今度はその管理がうまくいかない。試行錯誤しながら、この方法は本来の個別ケアの目的とずれているのではないかと気づきました。個別ケアに形から入ってしまっていたんです。

使っているものがどうかより、飲み物を飲むタイミングや、何を飲むかの方が大切。以前の暮らしを、鴻巣まきば園でどのように続けていくのかに焦点を当てる必要があることを学んできました。

 

鴻巣まきば園もできて17年が経とうとしています。

あっという間でしたね。行田より長くいることになります。仕事のベースが築けたまきば園(行田)は実家みたいな感じです。鴻巣まきば園では管理側の経験を積むことができました。

この17年の間に産育休も2回取得しました。パートとして復帰する人が主流の中、隼人会はじめての時短常勤としての復帰に戸惑うことも多かったです。当時は父も母も元気で、子ども達を見てもらうことができましたが、それでも、お母さんとして働くって、思ったより大変だなと感じましたね。整った環境で物事を進めていくことが難しくなり、自分のこと以外にやることも増え、ひとりで何役も担って、その場その場で切り替えていく。ひとつの人格じゃいられないですね(笑)最近、下の子がママみたいな仕事をしてみたいと言ってくれて、ちょっと嬉しかったです。

 

30年間、いろいろな変化がありましたね。

環境が変化していくことが自分は得意じゃないと思っていたけれど、今までを振り返ると、最初「わぁ」って思っても少し経てばそこに落ち着いていられる、環境に順応する力はあるのかなと感じます。大きな変化は得意じゃないから、いつもひやひやしていますけどね(笑)

大丈夫かなとか、心配や不安は常にあるけれど、時代も周りも変わっていく中で、流れに置いて行かれないようにうまく波に乗っていく努力をしています。周りをよく見て、今自分に何が求められているのか、今の時代のスタンダードは何なのか、敏感でいなきゃと思います。

仁司理事長や節子理事長からの言葉にも、ただ従う、ということはしていなかったように思います。言葉の意図をくみとって、それに対して自分は何ができるのか、どのように支えられるのか考えてきました。おふたりは介護経験があるわけではないけれど、介護の世界を良くわかってくださるなと感じますし、お客様やスタッフのことを大切にしたいという価値観は、私自身の価値観とも合っています。隼人会の考え方が自分自身にマッチしたからこと、長く続けてこられたのだと思います。

 

 

 

 

スタッフインタビュー集

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この記事は2024年10月発行の「まきばNEWS 22号」と2025年1月発行の「まきばNEWS23号」より転載しています。